風俗の客層にウケるスポーツネタ☆プロ野球編(この選手は特に知っておくと接客情報に役に立つかも?)

風俗の客層にウケるスポーツネタ☆プロ野球編(この選手は特に知っておくと接客情報に役に立つかも?)

2019/04/09
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突然ですが、風俗に来られるお客さんの好きなスポーツにどんなイメージがありますか?

野球やサッカー、大相撲などいろいろ出てくるかとは思いますが、

結論からいいますと実は…「プロ野球が好きなお客さん」はかなり多いんです!(現役やOBのプロ野球選手が実際お店に来ることもあります)

今回は、風俗の客層にウケるスポーツネタのプロ野球編についてをご紹介します。接客において、何歳ぐらいの女性が主に知っているとよい選手の分類です。

お客さんが好きなプロ野球のチーム

日本のプロ野球のチームは12球団あります。セリーグで広島、ヤクルト、巨人、DeNA(横浜)、中日、阪神、パリーグで西武、ソフトバンク、日本ハム、オリックス、ロッテ、楽天です。(表記順は2018年の順位順です)

全国的には巨人が人気あって、最近ではカープ女子のブームで広島も人気ですが、関西ではやはり「阪神タイガース」が圧倒的に人気ありますね。(関西でもパリーグのオリックスは阪神と比較しても人気度は下がってしまいます)

その阪神の場合でも、来られるお客さんの年齢層によって、好きな選手のジャンルが大きく変わってきます。若専系でしたら、2003年・2005年の優勝の頃のメンバーから最近の若手選手あたり、中専系でしたら、1992年あと一歩で優勝を逃した亀新フィーバー(亀山努、新庄剛志)の頃のメンバー、熟専系でしたら、1985年日本一になったときの主力メンバーが軸になってくるでしょう。

お店のジャンルによって、来られる年代の客層も変わってきますが、基本はお客さんの年齢にほぼ近い年齢になってくるでしょう。

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2003年・2005年から現在までの主な選手

2003年・2005年といえば、世代的にいうと20代~30代の方に主になじみ深いですし、その世代の風俗で働く女の子達でもご存知の方が多い思います。

2003年長い暗黒時代を切り抜けて、18年ぶり優勝をした年でした。星野仙一監督の胴上げを現地で見ていました。2005年も岡田監督のもと2年ぶりの優勝でしたが、そこから実に13年優勝から遠ざかっています。(2008年や2010年、2014年のように惜しい年もありましたが)昨年2018年は雨や災害などで過密日程に祟られ、2001年以来17年ぶり最下位でした。ある意味激動の2003年以降と言えます。その時代から今の選手を簡単に紹介します。

金本知憲


通称「アニキ」・「鉄人」でおなじみの選手。2002年オフ広島からFAで阪神に移籍。すると翌年を3番打者として(2試合だけ4番打者がありましたが)全試合フルイニング出場しいきなりリーグ優勝に貢献。2年後の2005年には40本塁打(本塁打王は広島時代から弟子で後に阪神に来る後輩の新井貴浩に譲る事になるが)打ち優勝に貢献してセリーグのMVPにも輝きました。2004年夏に手首を骨折しても翌日スタメンで出て、結局フルイニング出場で打点王。2006年4月に世界記録の904試合フルイニング達成し、故障でスタメン外れた2010年4月まで積み重ねた数字は1492でした。(連続出場は2011年4月まで続けて1766まで伸びました)

2012年に引退し、3年間解説経験のあと2016年から3年間監督に就任。2016年4位、2017年2位も2018年前述の過密日程や打線の不振、故障者など重なって17年ぶり最下位で辞任。ただ若手を積極的に登用するなど今までおざなりになっていた部分の改善はもっと評価されるべきことだと思います。

現役時代のポジションは外野手でレフトを守り背番号は阪神では監督時代も含めて「6」です。

矢野燿大(旧名:矢野輝弘)


今年から金本監督を引き継いで(金本氏とは同年齢だが大学の先輩・後輩にもなります)監督になりました。1997年オフトレードで中日から加入。中日時代は中村武志捕手が正捕手で、なかなか出番に恵まれませんでしたが阪神で正捕手に。捕手出身野村克也監督から厳しい指導を受け、中日時代も指導を受けた星野仙一監督(中日のとき阪神にトレードした理由として阪神なら出場機会増加ということが星野氏の頭の中にあった模様です)のもと優勝に貢献。その後2005年の優勝も含めて城島健司の加入や故障に苦しみ引退する2010年までホームベースを守り続けました。5年間朝日放送で解説経験のあと2016年金本氏のもとヘッドコーチ、そして昨年二軍監督でファームを日本一に導き、今年からは一軍監督に。捕手出身の監督の目線での改革に期待したい所です。

背番号は現役時代阪神では「39」でコーチ・監督では「88」です。

赤星憲広


2001年ドラフト4位で阪神に入団。小柄な体ながら俊足巧打で1年目から新庄剛志がメジャー移籍して空いたセンターのポジションを獲得。いきなり盗塁王で新人王を獲得。その後2005年まで5年連続盗塁王、そして2度のリーグ優勝に貢献もヘルニアに悩まされ2009年9月雨の中強行した試合でダイビングキャッチ試みた際に悪化し、その年限りで引退してしまいました。今は日本テレビ・読売テレビの「Going Sports&News」やABCラジオの野球中継で解説するなど評論家として活躍しています。

背番号は「53」でした。

今岡誠


アトランタ五輪で主力選手として活躍し、1997年にドラフト1位で阪神に入団。1年目から一軍に帯同し2年目以降強打の内野手としてレギュラーに定着。その後野村監督時代衝突でポジション失うも、星野監督になって再びレギュラー定着で2003年は1番打者として首位打者、2005年は5番打者として打点王で2度の優勝に貢献。2006年以降故障や不振に泣き、2009年退団。ロッテで3年間プレーし引退。3年間MBS毎日放送で解説したあと、2016年から2年間阪神二軍打撃コーチを経て今はロッテの二軍監督を務めています。

阪神現役時代の背番号は「7」でした(二軍打撃コーチの時は「77」)

井川慶


1998年ドラフト2位で阪神に入団。2年目、3年目と少しずつ先発の機会が増え、4年目の2001年にローテーションに定着。この年は防御率2位ながらも9勝に終わるが翌年星野監督就任と同時に開幕投手に抜擢されいきなり完投勝利。最終的に14勝挙げて奪三振のタイトルを獲得。翌年は20勝をあげて優勝に貢献し自身もMVPに。以後2006年までエースとして投げ続け、メジャーリーグに挑戦。ヤンキース入団もほとんど働けず、その後はオリックスや独立リーグに活躍の場を移すことになりました。

背番号は一貫として「29」をつけていました。

桧山進次郎


阪神生え抜き在籍22年の大ベテランでした。1992年ドラフト4位で阪神に入団。当初は一軍と二軍行ったり来たりでしたが、4年目1995年亀山努の故障以降一軍に定着。一時三振が多いなどの粗さでレギュラーを失うも、2001年打撃内容を切り替え確実性重視に。それが功を奏しレギュラー復活。28試合連続ヒットの球団記録や打率3割に。2003年、2005年の優勝にレギュラーとして貢献し特に2003年にはサイクルヒットを打ちました。2006年以降は代打中心になり2013年現役引退まで代打の神様として定着しました。現役最後の打席クライマックスシリーズ第2戦9回裏の2ランは感動に残るシーンでした。

2014年以降はABC朝日放送で解説しています。「おはよう朝日です」や「正義のミカタ」でもコメンテーターとして出演しています。現役時代の背番号は22年間変わらず「24」でした。

鳥谷敬


2003年阪神が18年ぶり優勝した翌年、自由枠で早稲田大学から入団。さっそく開幕スタメン掴むも、1年目はレギュラーには定着できず。しかし2年目からショートのポジションを獲得。その年に応じて打順はいろいろ変動しましたが、三拍子そろったショートとして定着。以後2016年途中まで10年以上ショートの座を守り続けることになり、侍ジャパンでも絶体絶命のピンチから盗塁し、それがきっかけで逆転勝利をつかんだ試合もありました。2016年途中からサード、セカンドとコンバートされ昨年前半の打撃不振で連続出場も歴代2位の1939試合で止まってしまいます。今年は再びショートのポジションの座を巡って若手と競争です。2004年入団当時から背番号「1」を背負い続けています。

福留孝介


中日ドラゴンズやメジャーリーグカブスなど経て2013年に入団。中日時代は幾度となく阪神戦でここぞの場面でよく打たれました。阪神入団当初は故障や不振で苦しみましたが、2014年後半巨人戦での引き分け寸前からのサヨナラホームランあたりから持ち直しその後は攻守に年齢を重ねても存在感を見せています。2016年古巣の中日戦でサイクルヒットを打ち、2017年、2018年はキャプテンも務めました。

阪神での背番号は「8」です。

糸井嘉男


日本ハム・オリックスで活躍しFA宣言で2017年阪神に入団した三拍子揃った外野手。阪神での2年間デッドボールによる骨折などで戦線離脱する時期があったものの、打率は常に3割前後をキープ。盗塁もオリックス時代盗塁王輝いた2016年の53には及びませんが、阪神でも2年連続20個以上の盗塁、ホームランも甲子園の浜風に苦しめながらも2017年17本、2018年16本。

背番号は日本ハム時代途中から「7」で、登場曲にSMAPの「SHAKE」が使われているのですよ。

藤川球児


あの松坂大輔と同学年で松坂世代の1人。ドラフト1位で入団当初は松坂と対照的に苦しみましたが、2005年阪神が優勝した際には中継ぎエースとして火のストレートで相手の打者から徹底的に三振を奪い優勝に貢献、2006年途中から抑えに回り、2012年まで阪神に。2013年からメジャー挑戦も2015年途中解雇され独立リーグを経て2016年から復帰。復帰当初は先発でしたが、途中からリリーフ転向し今も健在です。

背番号は現在は「22」です。

メッセンジャー


2010年にマリナーズから入団して(イチローとマリナーズ時代チームメイトでした)今年でなんと10年目の助っ人投手。FA権を取得したので外国人の枠から外れました。入団当初は中継ぎで投げていましたが、2010年後半から先発転向し、2011年以降は常に阪神の先発の軸として大車輪の活躍をしています。開幕投手も今年を含め2015年から5年連続で任されています。(通算回数は2013年を含め実に6回目)

背番号は「54」で、ラーメンが大好物です。

藤浪晋太郎


2012年大阪桐蔭の春夏甲子園優勝に貢献、その年のドラフトでロッテ・オリックス・ヤクルトと競合の末阪神が獲得。入団当初から3年間常に2桁勝利を挙げるも、2015年終盤に痛めた肩の影響からか、2016年以降は制球に苦しむことが多くなり、ここ3年間は芳しくない成績になっています。今年もオープン戦で結果を出せず、開幕一軍はお預けでしたがいずれにしても今後の事を考えると絶対に復活しないといけない投手です。

背番号は「19」です。

2003年頃以降ですと、2003年当時小学生・中学生だった人は20代で、高校生だった人は30代になってきますね。

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1992年の躍進とその後の暗黒時代を支えた主な選手

1992年といえば、世代的にいうと30代~40代の方に主になじみ深いですし、その世代の風俗で働く女性達でもご存知の方が多い思います。

阪神が最後まで優勝争いした1992年。実はその前年ダントツの最下位になり、前評判も低い状況でした。さらに某お笑い芸人集団に負ける始末。しかし1992年はその前評判を覆す戦いぶりで優勝争いを最後までヤクルト・巨人・広島と争いました。甲子園がこの1992年ラッキーゾーン撤去したことも投手陣の整備に繋がり始めました。優勝は最後ヤクルトに競り負けて惜しくも逃しましたが、巨人と並んで2位の大躍進でした。しかしそれ以降は1993年、1994年こそ4位で耐えましたが、1995年阪神大震災で親会社が被害を受けてそこから2003年優勝するまで暗黒時代が続きました。ここではその当時の主な選手を紹介します。

和田豊


1985年阪神が日本一になった年に入団。背番号は「6」(コーチ・監督時代は「86」)当時は内野のレギュラーが日本一を作ったメンバーのため不動でしたが、1988年にレギュラーを掴み主に1番・2番でセカンド・ショートを守っていた巧打の内野手でした。ホームランこそほとんど打ちませんが、三振が非常に少なくヒットを打つのが巧く阪神の暗黒時代でも相手にとっては脅威な存在になっていました。2001年に引退したあとはコーチを経て、2012年から4年間監督でドラフトで藤浪投手を引き当てたり、クライマックスシリーズで優勝した巨人相手に4連勝する下剋上もありました。今は球団フロントでスカウトや現役時代から得意だったデータ解析、タイガースアカデミー講師などを担当しています。

亀山努


背番号を「67」から「00」に変えた1992年開幕から一軍に入り、果敢な守備と一塁へのヘッドスライディングでライトのレギュラーを掴み、チームの2位躍進に貢献も翌年ダイビングキャッチした際の脱臼以降怪我に見舞われてしまう。1997年をもって引退し、今はMBS毎日放送で解説していますが体型はこの当時とは大きく変化してしまっています。

新庄剛志


1992年オマリーの怪我でスタメンで出た試合でホームランを打つなど、この年前述亀山とともに「亀新フィーバー」として世間を賑わせました。当初は内野手で外野手に転向、背番号を「63」から「5」に変えた1993年からは持ち前の強肩などでゴールデングラブ賞の常連に。敬遠の球をサヨナラヒット打ったり、記録以上に記憶になる男でした。2001年メジャーリーグ挑戦を経て2004年日本ハムに入団して北海道に移籍したチームを盛り上げ、2006年日本一になった年に引退。今はバリ島に住んでいます。

オマリー


現在は背番号「1」は鳥谷がつけていますが、かつてはこの方がつけていました。1991年阪神に入団、阪神在籍4年間常に打率3割を超える安定した成績残し1993年には首位打者に。お立ち台での「阪神ファンは一番やー!」や六甲おろしのイングリッシュバージョンでも有名でした。1995年から2年間ヤクルトに移籍して阪神はこの2年間ヤクルトにかなり敗れました。引退後阪神のコーチやスカウトやっていた時期もありました。

パチョレック


1988年当時の大洋ホエールズ(現在のDeNA)に入団し、4年連続3割も1991年オフに解雇されオマリーの紹介で阪神へ。1992年3番オマリー、4番パチョレックのコンビで阪神の2位躍進に貢献。しかし1993年外国人枠問題や外野へのコンバートで不振に陥ってしまいシーズン途中に引退。最後の試合の甲子園の中日戦での中日のエース今中投手の完封を阻止するホームランは惜別の一発だったかもしれません。

湯舟敏郎


1991年ドラフト1位で入団(背番号は「15」)、1年目から先発の座をつかみました。1年目はチームの不振とともに成績も芳しくなかったですが、2年目ノーヒットノーランを広島戦で達成し11勝挙げるも、終盤神宮球場でリリーフ登板の試合で四球連発でチームの逆転負けを呼んでしまう。1997年こそ二桁勝ちましたが、1998年足を骨折して以降精彩を欠き、2001年近鉄移籍も優勝する近鉄の力にほとんどなれず引退。今はABC朝日放送の解説者で「おはよう朝日です」に金曜にコメンテーターとして出演しています。

藪恵壹


ドラフト1位で1994年阪神に入団。その年9勝に終わるも新人王でした。好投するも打線が弱くなかなか勝ちに恵まれませんでした。2003年阪神優勝したときも先発ローテーションに入っていましたが、残念ながら日本シリーズでは登板機会ありませんでした。2005年からメジャーに挑戦し、2010年楽天でプレーして引退。阪神のコーチを経て今はMBSなど関西の放送局中心に解説しています。MBSテレビで放送している「せやねん」や読売テレビで放送している「す・またん」にも出演しています。背番号は「18」でしたが、2002年から阪神退団まではなんと「4」をつけていました。

1992年世代になってくると30代後半の人が小学生だったりして、それではじめて好きになった選手がこの世代の選手というのも多いでしょう。(実は私もこの1992年の時小学5年生でした)

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1985年日本一に貢献した主な選手

1985年といえば、世代的にいうと40代以上の方に主になじみ深いですし、その世代の風俗で働く熟女系の皆様でもご存知の方が多い思います。

バース


阪神史上最高助っ人と言っても過言ではない選手です。1983年入団すると、3年目の1985年伝説のバックスクリーン3連発の最初に打った打者になるなど最終的に54ホームラン打ち、日本シリーズでも3試合連続ホームランで阪神の優勝・日本一に大きく貢献。1985年,1986年ホームラン王、打点王、首位打者の三冠を達成しますがプロ野球史上でも三冠王は現在まで7人しかいません。1988年退団後はアメリカで農場経営、そして現在はオクラホマ州の上院議員でもあります。背番号は「44」でした。

掛布雅之


1974年ドラフト6位で阪神に入団。高卒1年目から一軍に定着し、3年目にはレギュラー獲得。1985年前述バース3番、掛布4番のコンビはセリーグの相手投手に脅威を与え阪神の優勝・日本一に大きく貢献。翌年の骨折以降一気に成績降下して、1988年33歳で惜しまれつつ引退でした。349本塁打は阪神歴代最多で、1989年以降は解説者で、2014年阪神のゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーターになると2年後2016年二軍監督に。2年間若手の育成に貢献して2018年からオーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー(SEA)しながらテレビやラジオで解説を行っています。背番号は現役時代も二軍監督時代も「31」です。

岡田彰布


名門早稲田大学から1980年ドラフト1位で阪神に入団。6年目の1985年バックスクリーン3連発の3人目の打者になるなどバース・掛布の後を打つ5番打者として活躍して優勝・日本一に貢献。その後1993年まで阪神に在籍し、1994年からオリックスへ。1995年オリックスががんばろう神戸で優勝した年に引退。オリックス二軍助監督など務めたあと、1998年から阪神へ。二軍監督や一軍コーチなど経て、2004年から5年間阪神の監督でした。2005年JFKで優勝に貢献も2008年巨人に大逆転優勝を許し辞任。1年解説者だったあと、2010年から2012年まではオリックスの監督でした。阪神現役時代背番号は「16」でした。

真弓明信


1973年現在の西武ライオンズにあたる太平洋に入団。1978年オフ阪神のスターだった田淵幸一を含めての大型トレードで阪神に加入。以後長打力を兼ね備えた背番号「7」の1番打者としてレギュラーに定着し、1985年阪神の日本一に貢献。1992年以降は代打の切り札になり、1994年広島戦で代打逆転満塁弾で勝利に貢献したこともありました。阪神大震災があった1995年引退。その後は解説者、近鉄打撃コーチ、解説者を経て2009年から3年間は阪神の監督に、2010年は優勝まであと一歩届かずの2位でした。(ナゴヤドームで優勝した中日にかなり負け越したのが響きました)今はABC朝日放送やサンテレビなどで解説しています。

平田勝男


1982年ドラフト2位で阪神に入団。(背番号は「30」)1984年からショートのポジションを掴み、1985年の日本一に貢献。1984年から4年間はゴールデングラブ賞に選ばれるなど守備の名手として活躍しました。和田豊の台頭で控えに回っても貴重な守備の要として1994年まで現役でした。引退後は解説者、コーチ、星野仙一監督の広報、コーチ、二軍監督などを経て今年から再び阪神の二軍監督を務めています。明るいキャラクターでおなじみです。

木戸克彦


1983年ドラフト1位で阪神に入団。田淵幸一のつけていた背番号「22」を与えられ、3年目の1985年阪神の日本一に正捕手として貢献。以後1990年までレギュラーで、1991年以降は出番減少するも湯舟敏郎のノーヒットノーランの試合ではマスクを被るなどありました。1996年で引退し、コーチや解説者などを経て現在は阪神のフロントに在籍しています。あの清原和博が逆らえなかった人物でもあり、清原が巨人在籍時阪神戦で乱闘起こすも木戸登場で清原本人がおとなしくなることがありました。

中西清起


1984年ドラフト1位で阪神に入団。現在は藤浪がつけている背番号「19」を小林繁から引き継ぎました。2年目1985年抑えの切り札としてチームの日本一に貢献。1989年からは先発転向するシーズンもあるなど、チームのそのときの状況に合わせていろいろな起用ができる投手として活躍しました。1996年最終戦中日戦で同じく引退する木戸克彦(奇しくもこの両者は1985年優勝の胴上げバッテリーです)とバッテリーを組んで1イニングだけ先発する引退試合を行い引退しました。引退後は2003年までABC朝日放送などで解説し、2004年から12年間阪神の投手コーチを務めた後、2016年から再びABCの解説者に戻っています。

1985年といえば私はまだ4歳でしたが、この当時小学生だった人も40代でもちろん高校生の場合だと50代(甲子園を沸かせたPL学園の清原桑田のKKコンビが高3で夏の甲子園で大暴れしていたのも1985年でした。彼らももう52歳ですので)になりますからね。

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まとめ

世代によって好きな選手やイチオシの選手はいろいろ変わってきます☆これはある意味芸能人とかタレントと同じですね。ただ、今回紹介した選手以外にも紹介しきれなかった選手はまだまだたくさんありますので、これをきっかけにどんどん掘り下げていくのも新たな発見になるかもしれません。

阪神タイガースを中心にプロ野球を年間20試合近く観戦している部員。最近では野球以外にもサッカーや大相撲の観戦も。

この記事のライター

torakichi

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はじめまして、ビガーネット編集部員です。 阪神タイガースを中心にプロ野球を年間20試合近く観戦して...