風俗の歴史を学んでみる

風俗の歴史を学んでみる

2018/04/19
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性を扱う文化の発生は古く、現存する遺物から辿れる範囲では、シュメール文明にまで遡ります。

時に人は、売春を世界最古の職業であると称しますが、その実、決定的な証拠がないのも事実です。

そもそも何をもって職業となすのか、その概念さえ危うい時代のことであるので、当時の人にとっては未来人である第三者の我々が、簡単に定義してしまって良いものか、甚だ疑問ではあります。

今回は、いつもと毛色を変えて、少し真面目なお話をしていきたいと思います。

売春の歴史についてです。

性風俗のお店で働く人間にとって、必ずしも必要ではない知識ではありますが、

プロというものは、その専門職についてよくわきまえているものです。

それに、せっかく春を鬻ぐ(ひさぐ)女のお仕事をするのであれば、勉強をしておいて損はないでしょう。

売春の歴史とは言っていますが、基本的には日本における売春の歴史をご紹介します。

日本での売春の始まり

古事記・日本書紀における、天照大神が須佐之男の邪な暴虐行為に対して心を痛め、天岩戸へ隠れてしまったというお話は大変有名ですが、その天照大神を天岩戸から引っ張り出す作戦で活躍したのが天鈿女(アメノウズメ)でした。

天鈿女は踊り子で、天照大神が籠る天岩戸の前で乳を揺らして踊り舞いました。

彼女はお祭り騒ぎを引き起こして、天照大神が自分から外へ出てくるように仕向けたのでした。

このような踊り子の役目は古くから女の役目であり、それは日本に限った訳ではありませんでした。

古代ギリシャにはヘタイラと呼ばれる高級娼婦たちがいましたが、彼女たちは非常に博識で、歌や踊りなどの芸能に関しても、高い技術を持っていました。

日本における文献で、最も古く、最もよくその性に対する奔放さを記録している資料は万葉集です。

万葉人(まんようびと)では特に女性のセックスに対する積極性が描かれ、現代と違わぬほどの活発な性生活が繰り広げられていたことがわかります。

時代が下ると、性を商売とする女がしばしば現れるようになります。

当時の性産業の記録を残した大江匡房は、

摂津国に至れば、神崎・蟹島等の地あり。門を比べ戸を連ねて、人家絶ゆることなし、倡女群を成し、扁舟に棹さして旅舶に着き、もて枕席を薦む。声は渓雲を遏(トド)め、韻は水風に飃へり。経廻の人、家を忘れざるなし。洲蘆浪花、釣翁商客、舳蘆相連なり、殆(ホトンド)水なきがごとし。蓋し天下第一の楽しき地なり。

(http://blog.livedoor.jp/kotonohaan/archives/8835881.htmlから抜粋)

と、その著書である『遊女記』のなかで描写しています。

海に船を並べ、その上で遊女たちが男たちに体を売っているようすがありありと浮かんできます。

大江匡房は平安後期にこれを著しましたが、さらに時代が下り、幕府が鎌倉になると、遊女の管理は役所が行うようになりました。

当時は遊君別当と呼ばれ、源頼朝が里見義成をその役職に任命したとされる記録が『吾妻鏡』に残されています。

現代では、もはやザル法とまで言われる売春禁止法が日本にはありますが、古代の日本では売春は公的に認められ、国が管理していたのです。

しかし、世界へ出ると、売春を公的に認め、セックスワークを正業として扱っている国はあります。

特にオランダとドイツです。

オランダ観光へ行ったことのある方であれば、もしかすると聞いたことがあるかもしれませんが、街にはレッドライトディストリクト(Red Light District)と呼ばれる、売春地域があります。

ここにはガラス窓が立ち並び、その中に女性が、まるでガラスのショーケースに入れられた商品のように立ち並んでいるのです。

こういった本番行為を国家で認め、公然と正業として存在しているオランダに対して、カルチャーショックを抱きたくなる人もいるかもしれませんが、日本人も古代から性的に奔放な人種ですし、何もそこまでオランダを別物扱いできるような立場にいる訳でもないのです。

中世からの売春の歴史

すこし脱線しましたが、鎌倉時代には公的に売春を管理する役所ができたのでした。

それから室町になっても、鎌倉同様に売春を管理する役所が存在しました。

また、豊臣秀吉は天下統一ののち、遊女町を許可し、現代には残っていませんが、島原の遊郭もそのうちの1つでした。

時代が江戸に変わると、今でも遊郭として有名な吉原が誕生します。

もともと吉原は日本橋人形町付近にあったようで、そこは葦がはびこっていたために葦原と呼ばれていましたが、縁起よくするために吉の字を使い吉原と命名されたのでした。

ですが明暦の大火によって灰燼に帰し、現代でも吉原と呼ばれている地区、日本堤へ移転することになりました。

昔あの地域には、石神井川から分かれた音無川という灌漑用水があり、それが隅田川へ注がれていたのですが、その音無川の土手であったのが、日本堤でした。

吉原へのお客はあの堤を通い、やがて現れる見返り柳(吉原を去る時にお客が名残惜しそうに遊郭を見返るのでこの名がついた)を見上げて吉原への一歩を踏み出していたのでした。

その吉原も過去に一度火災に遭っており、後に新吉原として生まれ変わるのですが、その時は立地を改めることをしませんでした。

火災の後も変わらずに日本堤に佇み、遊郭は男の欲望を叶える女たちの人生を見守っていたのでした。

江戸の後期になると、日本史でもおなじみのペリーやハリスが日本へやってきて、開国を迫ったり、条約を結んだりします。

これにより外国文化の流入が進み、思想的にもよりグローバルを志向した雰囲気が日本国内でも醸成されるようになりました。

その結果として、吉田松陰の松下村塾から旅立った豪傑たちによる、江戸倒幕と明治政府の樹立によって、日本にも文明の開花が導かれたのでした。

明治から現代に至る

明治になると、西洋的な考え方が徐々に一般化されてゆき、古来から日本人の中にあった、性に対する奔放さや心の広さが次第に衰退しはじめました。

セックスに対する野蛮さが問題視されるようになった訳です。

これに伴って、大して問題になっていなかった吉原をはじめとする売春の文化が風前の灯火となってしまいました。

売春は悪であり、男のエゴである。そのような醜い悪癖は直ちに粛正されるべきだ。

と、女性の社会における地位の向上も手伝って、売春の文化が大手を広げていられないような時代になったのでした。

それでも売春自体は存在し続け、吉原をはじめ、関西では飛田や島原が有名でしたし、その他にも赤線と呼ばれる、特別に看過される売春区域が日本に点々としていました。

そして、第二次世界大戦が始まり、日本もアメリカ軍をパールハーバーにて奇襲、太平洋戦争の火蓋が切られると、出兵先にも娼婦たちは現れ、戦う男たちの士気を高めるためにも、彼女たちは兵士たちを慰め、奮い立たせたのでした。

しかし結果的に戦争には敗北した日本。戦後GHQが日本を実効支配しましたが、天皇陛下は殺められることなく利用され、日本の教育を通して内側から日本人を弱らせていきました。

その弱体化の手段の1つには、日本における売春の統制もありました。

その頃の国会では衆議院と貴族院に分かれて政治が主導されていたのですが、女性の社会進出も進み、女性の国会議員も少なからず活躍していました。

そういった女性たちが国会で叫ぶ題目といえば、それはやはり女性の社会進出に関する問題でした。

ある議員は、売春は女性の社会進出を妨げる弊害である、という旨の発言をしていたようでし、男性であっても、支持を得るためにこのような女性支援の思想に手を貸すこともあったでしょう。

そういった流れの中で、売春禁止法が制定されたのでした。

1957年に一部の地域にて施行され、その翌年に完全施行されました。

ですが、違法のくせに罰則はないこの法律に、それほど拘束力はありませんでした。

それゆえに、結局売春は今もなくならず、自由恋愛という言葉に変換されて黙認されているのです。

20世紀中盤における売春禁止法の制定からは、特別大きな問題もない売春業界ですが、今一度日本の歴史の中で売春という項目だけを拾い上げてみると、特に19世紀からは大きな変動があったことを俯瞰できます。

その根っこにあるのが、欧米列強の日本訪問からの鎖国体制の解除をはじめとする、長く続いた日本の保守的構造の崩壊と新たなる文明の発展の黎明であることは明らかでしょう。

日本人は本来、性に対して奔放的な人種であったことは万葉集から推測することができますし、それ以降の歴史を辿っても、鎌倉・室町では公的に役所を設けて売春を管理していたという事実から、性に関して寛容な考え方を持っていたのは間違いなかっただろうと思います。

もちろん、現代の日本人が間違っているというわけではありませんが、日本はもっとセックスワークに対して寛容になっても良いと思います。

風俗嬢というお仕事に対して、より寛容に認められるような社会が来れば、女性たちはもっと働きやすくなることでしょう。

性に関する日本の歴史にはまだまだ深いお話がたくさん眠っていますので、興味があればいろんな書籍を読んでみることをお勧めします!

この記事のライター

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